「詩」は、個人や社会に対して大きな力を持っているのではないか、と思うようになり、これまで見過ごしていた「詩」の存在に、近年、やっと得心を伴った上で、興味を持てるようになった。それは、たまたま手元にあったアリストテレス様の書籍のおかげです。この機会に、この著作について感じたことを書こうと思う次第だ。その目的は、彼の理屈本に登場している「目的因」なる人物が訳わからんので、同じ外国社会でも通用するという「詩」を足がかりにして、このよーわからんムツカシイ人物同士をシャッフルのフュージョン・オブ・化学反応させれば、急がば回れで、、、障害物を迂回して、『自分の田んぼに理解を引水』、、、そういや、いつもの無為自然にタイピングをしていたら、むしろ『犬も歩けば棒に当たる』でタンポポの綿毛がふらふらと風に吹かれyて一か八かで種を蒔き、という結果的なミラクルが狙いだ、、、ロールケーキ、すげーすげー美味いぞー〜ーそれ、tt無目的な雑談の延長線上に「詩」がひょっこりと顔を出したら、、、ナイス・キャッチして、はい!いっちょあがり!!!、、、ですか?
さて、ティーも頂戴したところで、、、頭脳が辻褄を合わせようと、、、楽しく運動を始めたので、本題と洒落込もう、、、「詩」といえば和歌や俳句や俵万智、吉本バナナの作品を思い浮かべるのだが、アリストテレスにとっての「詩」は、俺の想像していた「詩」よりも広い。アリストテレスにとっての「詩」には、物語、W汎函数の悲劇や喜劇も含まれる、、、まぜこぜシステム系ズタボロ項阿寒湖物語危険信号ウでまくりじゃ。でも、アリストテレスは、詩作の方が歴史よりはるかに価値が高い、と言っているので、「詩」は歴史ではない。叙事詩は「詩」であり、「詩」は歴史ではないから、叙事詩と歴史は別のものである。そもそも「詩」ってなんだろうか。アリストテレスの「詩学」は全26章からなり、気になった箇所を自由気ままに書き写した。以下、それを書き写したものだ。感想があれば、それも書いた。久しぶりばかの白い石布団がある。。。逆流性食道炎に注意、、、妖精、、、つもり、、、アリスのように不思議さを受け止めたっら、、、誰だって、、、どこだって、、、森に迷い込めるのーーー、、、で、、、デレるの?、、、て何?キンバイ、、、て何?、、、それには、、、答えがない。でも、、、不思議と、、、心は、、、支離滅裂でも、、、何かを捻り出してくれて、、、できたものが、、、おそらく「詩」というものに、、、なっちゃうんだろう。
さて、、、アリストテレースさんは、「詩学」の中で、模倣という言葉ひとつだけを繰り返し用いて、「詩」を説明していた。一体、、、これは、、、どういうことか、、、はっきり言って、、、まったくわからない。つまり、、、蜂蜜入りのミルクティー、、、があったとして、、、それをコピペしまくると、、、「詩」が誕生するとでもいうのですか、、、と。誘い文句は、、、ほどほどにして、、、アリストートル氏の言い分を覗き見してみたいと思う、、、。
1から7
ところで、叙事詩の作成や悲劇の制作、さらに喜劇の制作やディテュランボスの詩作、また大方の竪笛の吹奏や立琴の弾奏、これらはみな、全般的にみれば、じっさい、模倣作用になっている。
以上のようであれば、模倣される人間たちはわれわれ通常のものよりいっそう優れたひとたちか、あるいはそれ以下のものたちか、(あるいはまたこういったものたちなの)である。
まさにこのちがいにおいてまた悲劇は喜劇に対してへだたっているのである。
一般的にいって、詩学を生んだ原因にはなにか二つがあって、いずれも、人間に自然的であるように見える。
第二には、万人が模倣されたものをよろこぶことも生得的だからである。
これに反して叙事詩のほうは、時間的に制限されていない。
何らかのコピーを喜ぶことが、生得的。🐺これは現代人がパクリを嫌がる気持ちとは、別のことだろうが、いまいちピンとこない。いや、、、100日後に、、、時間差で、、、ピントキマスタ、、、はい、、、それだけ。「これ」、「それ」、「あれ」の使い分けが、俺にはちんぷんかんぷんになってきてるんだ、、、「自分とは何か」という問い、そこが、、、ずっと、、、不思議と、、、奥になる程、、、わからないんだ、、、。それは気にしたら負けの話、、、と言われても「勝つーと思うーなー思えばー負けーよー、、、」てテニスの猪熊さんのお声がけがやって来るから、気にすることも勝ちのあるh話に思えてくるんです。それはそれとして、、、て何?、、、「勝つと思う」と言っちゃっても、「よろしくやで、、、171、、、GO、、、せん、、、」と、唱えれば良い、、、対称性があれば、という話が、いつもここでも、だよん、、、。靴紐を新調しないと、と感じ始めたのに、ずいぶん年月が過ぎたなー、、、でも、誰も困ってないと、進まないんかもね、、、て何?、、、あー多いなー無地ならなー大雑把なくらいでちょうどいいのかなー、ここでは、老眼でぼやけた国で、それで見えた事物でそれで全部でも満たされた心に、、、あ、ガラス窓を強風が叩いたぞ、、、なんか怒ってる?
8から13
ところで、魂について前述されたことを要約して、魂は、ある意味では、存在するもののすべてである、と繰り返し言うことにしよう。
なぜなら、かれらは、ヘラクレスがひとりだったから、物語もまた当然一つであると考えているからである。
すなわち、前者は生起したことどもを語り、後者は生起しうるであろうことどもを語る点にあるのである。こういうわけで、詩作は、歴史よりもはるかに哲学的でもあり、はるかに価値の高いものなのである。
単純な筋と行為のうちで、挿話的なものは、最悪なものである。
だが、すべてこういったことが最高度において見出されるのは、あらためていうまでもなく、智者においてである。
ゴッホゴッホホ、エプロン!!!、、、パンダのトラックがいて、列車がワダツミ上の線路をガタンゴトンというオト、、、波数、、、空間、、、て何?それは欲しかったものではない、、、そもそも、、、数がくない?未来を語るのが、「詩」。魂が存在するもののすべて?って、アリストテレスが書いたんだ。。。あまりしっくりこなくって、、、宇田も、、、ホーク、、、つっっまり、、、ゆうてい、、、ミャオ、、、ポンポン、、、だ。それだ、、、ノー天気、、、実に不愉快なことがあって、それを雨から、、、は、、、天晴れ大先生に、変身しろ、、、だ。
14から20
ところで、恐れと憐れみは、仮面や衣装(オプシス)から生じることもできる。
認知がなにであるかは、前にのべられた。
筋のうち、あるものは、単純であり、他のものは複雑である。
すべての悲劇には、結び目をつくる縺れの部分とそれを解く解決の部分がある。
結び目と縺れ、、、たぶんそれ、、、は、、、量子だ、、、それであかん?、、、というオッチャンの声が窓から入ってきて、、、飛んで火に入る夏の虫、、、歌だ、、、オートマティク色まち、、、口は災いの元、、、踏む!!!、、、うこ、、、だ。北海道で牧場のお仕事って何?おい、、、期待させるなよ、、、それは、、、何を、、、仄めかしているのだ?そう、、、手が勝手に動いて、、、書いた事に、、、文句を、、、言いたくもあるが、、、その最中にも、、、僕の手は、、、タイピングを、、、やめてくれず、、、支離滅裂で、、、続く、、、のだ。。。そう、、、「詩」、、、の師匠であった、、、清少納言が、、、ついーと、、、また始まったのが、、、春は、、、曙、、、スモーリン、、、ナツキにケラし、、、白田への、、、衣hp波長、、、天香山、、、だ。結局、、、あとで、、、チョチョイと、、、手直しをして、、、できたものを、、、「詩」と定義するのは、、、大丈夫かなー。
21から26
さらにまた、叙事詩は悲劇と同じ種類のものをもつべきである。
問題と解答については、それらがどのくらいの数でまたどんな性質の種類からできているかを、つぎのような仕方で考察したら、明らかになるであろう。
叙事詩と悲劇といずれがよりすぐれた模倣であるか、ひとは問うであろう。
さらに、悲劇は叙事詩のもっているのと同じだけのものをすべてもっている(なぜなら、詩形を用いることもできるからである)。
シャナク、、、がいるのが、、、見えましたとさ、、、もうそろそろ気づく頃だ、、、詩作の偶発性に、、、。


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