アリストテレス「詩学」を読みました。

「詩」は、個人や社会に対して大きな力を持っているのではないか、と思うようになり、これまで見過ごしていた「詩」の存在に、近頃、興味を持てるようになった。

「詩」といえば和歌や俳句や俵万智、吉本バナナの作品を思い浮かべるのだが、アリストテレスにとっての「詩」は、僕の想像していた「詩」よりも広い。アリストテレスにとっての「詩」には、物語、悲劇や喜劇も含まれる。でもアリストテレスは、詩作の方が歴史よりはるかに価値が高い、と言っているので、「詩」は歴史ではない。叙事詩は「詩」であり、「詩」は歴史ではないから、叙事詩と歴史は別のものである。そもそも「詩」ってなんだろうか。

アリストテレスは、「詩学」の中で、模倣という言葉を繰り返し用いて、「詩」を説明していた。どういうことだろうか。

アリストテレスの「詩学」は全26章からなり、気になった箇所を自由気ままに書き写した。以下、書き写したものだ。

1から7

ところで、叙事詩の作成や悲劇の制作、さらに喜劇の制作やディテュランボスの詩作、また大方の竪笛の吹奏や立琴の弾奏、これらはみな、全般的にみれば、じっさい、模倣作用になっている。

以上のようであれば、模倣される人間たちはわれわれ通常のものよりいっそう優れたひとたちか、あるいはそれ以下のものたちか、(あるいはまたこういったものたちなの)である。

まさにこのちがいにおいてまた悲劇は喜劇に対してへだたっているのである。

一般的にいって、詩学を生んだ原因にはなにか二つがあって、いずれも、人間に自然的であるように見える。

第二には、万人が模倣されたものをよろこぶことも生得的だからである。

これに反して叙事詩のほうは、時間的に制限されていない。

8から13

ところで、魂について前述されたことを要約して、魂は、ある意味では、存在するもののすべてである、と繰り返し言うことにしよう。

なぜなら、かれらは、ヘラクレスがひとりだったから、物語もまた当然一つであると考えているからである。

すなわち、前者は生起したことどもを語り、後者は生起しうるであろうことどもを語る点にあるのである。こういうわけで、詩作は、歴史よりもはるかに哲学的でもあり、はるかに価値の高いものなのである。

単純な筋と行為のうちで、挿話的なものは、最悪なものである。

だが、すべてこういったことが最高度において見出されるのは、あらためていうまでもなく、智者においてである。

14から20

ところで、恐れと憐れみは、仮面や衣装(オプシス)から生じることもできる。

認知がなにであるかは、前にのべられた。

筋のうち、あるものは、単純であり、他のものは複雑である。

すべての悲劇には、結び目をつくる縺れの部分とそれを解く解決の部分がある。

21から26

さらにまた、叙事詩は悲劇と同じ種類のものをもつべきである。

問題と解答については、それらがどのくらいの数でまたどんな性質の種類からできているかを、つぎのような仕方で考察したら、明らかになるであろう。

叙事詩と悲劇といずれがよりすぐれた模倣であるか、ひとは問うであろう。

さらに、悲劇は叙事詩のもっているのと同じだけのものをすべてもっている(なぜなら、詩形を用いることもできるからである)。

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