キケロ「弁論家について(下)」

(上)に続いて(下)を読みました。

キケロ「弁論家について(上)」

(下)について順に内容を見ていきます。

初めは笑いやユーモアやウィットについて語られていました。

笑いについて〜

笑いについては、探求すべき問題は五つあります。第一は、それが何であるかということ、第二は、それがどこからくるのかということ、第三は、笑いを誘おうとするのは弁論家のなすべきことかということ、第四は、それが許されるのはどの程度までかということ、第五は、滑稽なものの類は何と何かということです。

その後、何について書かれているのか。係争についてのように思いましたが違うようで、とらえどころが見つかりません。いつの間にか、笑いについては終わっていました。

さてそこで、今こそ、カトゥルス、君が少し前にその扱いが神様のようだと言ってわたしを褒めてくれたあの問題、つまり、内容とトポスの配列や配置の問題に戻ることにしよう。その方法についてだが、これには二種あり、一つは係争の本性がもたらすもの、一つは弁論家の判断力と知恵によって獲得されるものである。

その後、序論についての話になります。そして陳述について、というふうです。

したがって、(元老院での)説得弁論において何より望まれるのは品格なのである。というのも、実益を追求する人が理解しようとするのは、説得する人が最も望んでいる(最善の)ことではなく、自分がさしあたり何に従えばいいかということであるが、とくにわが国のような輝かしい国家にあっては、何よりも品格を追求しなければならないと思わないような人は一人としていないからである。

品格についてに続き、称賛演説について書かれています。

称賛演説が弁論家の務めの一つであるとすれば、すべての徳を認識しているのでなければ称賛演説を行うことができないのであるから、弁論家にとってすべての徳を認識しておくことは必要不可欠である

続いて記憶についてです。

古代ローマ人の名前は長いですね。

この作品は何人かの登場人物の対話を通して、弁論家について語られます。古代ローマ人の名前に似たようなものが多く長いので混乱してしまいました。カエサルやブルートゥス、クラッススという人名が出てきますが、どうやら歴史教科書から最初に想像する人とは別のようです。

クラッススの死〜

その後、登場人物の一人、クラッススの死について語られ、そしてクラッススの最後のとも言うべき談論が記録に書き留められます。

正しいラテン語について語られています。そして哲学というか哲学史について、もちろんキケロの時代まで。特にソクラテスについて次のように語られています。

このときから、言わば舌と心の乖離が始まった、われわれに賢明さの知恵を教える者と、言論の知恵を教える者が別々であるなどという、いかにも理不尽な、無益な、批判されるべき乖離がね。

クラッススというかキケロは哲学と弁論を一体と考えていたんですね。

そして弁論の飾りについてです。

さて、弁論家が弁論に輝きを与え、飾りを与えるために用いる単独のものとして見た言葉には、稀語、もしくは新造語、もしくは転用語(比喩)の三種がある。

その後、韻律やリズム、声調といった発声についてです。

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